建設事業者のみなさまへ

Moiss 人と生きていく壁

開発コンセプト

昔の日本家屋の魅力を、現代に活かす。

MOISSを開発するにあたって、私たちが最も注目したのは日本の伝統的な民家です。実はかつての日本家屋には、健康的な生活を送るための数々のヒントが秘められていたからです。例えば、伝統家屋に使われていた建材は木材、石、葦、土など。これらはすべて天然素材で、適度な調湿機能をもち、室内環境を常に新鮮に保つことができました。部屋の中央に据えられた囲炉裏は、まるでエネルギー効率に優れたキッチン。料理をしながらその熱で暖房器の役割もはたしていたのです。そして、立ちのぼる煙は木材や葦を燻し、防虫効果と耐久性を自然と生み出していました。

この自然のハイテクと現代の住まいの優れたポイントである高気密・高断熱を保ったまま実現することはできないか。これがMOISS開発の原点だったのです。
また、就寝時に蓄えられた湿気は、敷布団から畳を通じて床下に放湿されていました。土壁もゆるやかに呼吸し、外部の湿気を壁内に蓄えて必要に応じて少しずつ室内に放湿しました。自然と共生することで、そのエネルギーを合理的に利用していたわけです。まさに、英知を超えた自然のハイテクといってもよいでしょう。

日本古来の住宅こそ、MOISSの原点なのじゃ!

日本住宅の変遷

日本の伝統住宅の考え方~自然を愛でる日本文化の息づく住まい~

日本の伝統的な木造住宅を見ると、開放性、つまり風通しの良さという大きな特徴を持っていることがわかります。これは日本という国が木材資源に恵まれていたたためで、西欧の砦や城郭などのように石材を使用せず、土地にあった木材を用いて構築したからと考えられます。 例えば、石材やレンガが主な材料である国などは、構造材料の差を建築形体の異なる要因とするところもあるが、それは単に手段の違いであって目的の違いではありません。もし、西洋が日本のような高温多湿の気候風土にあって、石材やレンガが必然的にあったとしたら、もっと違った住宅の形体や暮らし方が存在していたでしょう。わが国の古文「徒然草」の第五段に語られる、「......家のつくりやうは夏居を旨とすべし......」。これは日本の「風土」のあり方を端的に表現しているように思われます。

日本の四季からいっても、冬の寒さはむしろしのぎやすく、夏の蒸し暑さを避ける家が最上とされてきました。「衣・食・住」つまり、住むこと、保存し食べること、そして十二単に代表されるように重ねて体温を保つこと、これはすなわち衣の世界です。
わが国の歴史的建築物を見ると、外壁、間仕切り壁、柱と柱の間はそのほとんどが障子や襖になっています。この開放的な考え方はどこからきたのでしょうか。「暑さ寒さも彼岸まで」という諺があるように、耐えるという精神文化こそが日本人のすべてであるように思われます。それは、彼岸まで辛抱すれば、あとは桜、新緑の候、そして夏を経て、紅葉の秋という夏を中心においた一年のサイクル、つまり四季をとおした生活、暮らし方が基本になっていることを意味していたのではないでしょうか。

それは、自然に対する畏れより、自然を愛でる心を大事にしてきた日本の文化。借景というように屋内に居ながらにして自然と接するという思い。そしてすべての万物に神々が宿ると信ずる信仰心など、自然と融合、共生した生活感こそが日本人としての国民性の根底にあったに違いありません。

明治・大正期から戦前の住宅スタイル

明治中期になると西洋化が少しずつ浸透し、それに伴い住宅改良の論議も動き出します。その内容はこれまでの日本住宅と洋風住宅を比較し、その欠点をあげるという形式をとり、徐々に洋風住宅を取り入れるというより、直接洋風の生活スタイルを前提として、より日常生活に密着した生活改革を目的とした流れでした。
街や都市は西欧からの建築技術を導入した建築物が建設されはじめてきました。また貴族や富豪の住宅は徐々に欧米化に傾注し、洋間の応接室を持ち、和風のスタイルをもった和洋折衷式の傾向となって表れます。
衣類をはじめとし、欧米の模倣の風潮が改良という名のもとに広まっていくのもこの時期です。住宅の改良、それはまた生活スタイルをも変えることを意味していました。

大正12年、関東大震災により東京は壊滅的な打撃を受けます。政府は翌13年財団法人同潤会を設立し、18年間にわたって賃貸住宅ならびに分譲木造住宅、勤め人向、職工向分譲住宅、軍人遺族用アパートなどを9568戸建設するとともに、不燃化を具現化する目的で16件の鉄筋コンクリート造によるアパートを延べ2508戸建設し、近代的な集合住宅の先駆けを創りました。
なかでも中流階級に公募をかけ、昭和9年に建設された江戸川アパートメントは、最新設備を設けた近代の集合住宅のモデルというべきコミュニティを完成させました。
その後、同潤会は昭和16年にその役目を終え、同年住宅営団へと受け継がれ、昭和33年日本住宅公団となって高度成長期における大量の住宅供給を担うことになります。

<出典>
「財団法人同潤会18年史」財団法人同潤会、1942年

欧米による建築文化の流入

昭和期に入ると、住宅も機能主義の影響が強くなってきます。フランスの建築家ル・コルビュジエの「家は住むための機械」、ワルター・グロピウスの率いる造形・建築教育機関「バウハウス」らによる近代合理主義のデザイン思想が導入されます。その原理はわが国の建築界に大きな影響力を与えました。
それは、これまでの伝統的な和風建築のスタイルを一変し、機能と動線によって明解に構成されていきます。

欧米型のスタイルといっても、「居間」を中心とする平面図の考え方は、いわば、和風建築の「茶の間」や「囲炉裏」の考え方、家庭の団らんを重視する考え方に相通ずるものがあります。この居間中心の考え方は、わが国において明治以降の社会的な背景より生まれた考え方で、新しい住宅形式となっていきます。この形式は大正期の半ば以降には成立し、昭和には広く中流住宅に浸透、定着し、現在もその考え方は住宅の基本的な考え方となっています。

<出典>「ル・コルビュジエ」スタモ・ババタキ編、生田 勉訳、美術出版社、昭和28年
初田亨・大川三雄「都市建築博覧・昭和篇」住まいの図書館出版局、平成3年

復興住宅から現代までの移り変わり

1945年に終戦をむかえ、都市の深刻な住宅不足を補うため、1947年より国内の住宅建設の動きが政府主導により始まります。世にいう「バラック住宅」です。1950年にはこのバラック住宅の居住性や耐久性を高めるため、住宅金融公庫を発足させ、新たに「木造住宅建設基準」を設定し、戦災復興住宅の建設に力を注ぎます。公庫は、住宅建設費や土地購入費への融資を行い、次第に住宅建設が軌道に乗り完成をみますが、当時の住宅レベルは住居として極めて不十分なものでした。この当時の平均的な間取りは、2つの居室に台所と便所。この空間のなかで「食事」「就寝」、そして「接客」と、工夫で棲み分けをしながら使いこなしていました。

もう一つ、終戦後には特筆すべき実例があります。GHQ(連合国進駐軍)の進駐によりわが国に流入したアメリカ文化です。これらによって、さまざまな変化を受けることになります。46年、進駐軍の入場とともに連合国軍進駐軍家族用住宅(デペンデントハウス)が建設されます。住宅は1、2階建で敷地の空間を充分にとった配置計画でした。当時、東京では原宿駅近くの代々木錬兵場跡地に「ワシントンハイツ」、練馬に「グラントハイツ」といったアメリカ人専用の大規模ニュータウンが建設されました。そこには小学校をはじめとしてPXと呼ばれるスーパーマーケットや映画館、ガソリンスタンド、ボーリング場などといった施設を備え、そのままアメリカの文化が入り込んだわけです。住宅はアメリカの仕様により国内の建設業者、大工を使用し、メートル法ではなく慣れ親しんだ尺間法による2×4構法の住宅を建設し、アメリカ仕様によるわが国初の国産住宅となりました。


戦後の住宅供給は住宅公団の主導によって推進されました。設計に際して、標準設計と呼ばれる基準タイプが生まれます。これは、茶の間の考え方を活かして和室2部屋に台所、便所、玄関を附属したもので、この時点では浴室はまだありません。1951年には食事をとる場と寝る場とを分ける「食寝分離型」の間取りが生まれます。この間取りの特徴は、一戸あたりの面積を広げて食堂を設けた点で、食堂が独立できないときには、台所を広げて「ダイニングキッチン」(DK)としました。1956年、公団の住宅に「DK」という言葉が登場し、その後全国に拡大。DKは生活行動による空間の分割を行い、やがて人々はこの新しいスタイルに馴染んでいきます。1967年、住宅公団は「DK+L」を標準設計とし、後にLDKは集合住宅のみならず戸建住宅へも広がっていきました。
公団の使命は、大量に住宅を供給することにありました。規模を拡大するなら、まず三寝室を確保することが先決とされました。戦後の住宅の傾向として、「まず寝室を確保し、次に寝室と分離した食堂を入れ、最後に居間を設ける」という、住宅復興の3つの配置プロセスがうかがえます。

1960年以降、大量消費化の時代になると、高価な耐久消費財や電化製品が増加し、都市には人が流入します。核家族が増えると、茶の間に代わってじゅうたん敷きに応接セットのある「リビングルーム」が登場。一方で、公室や私室は分化し、DKに家族の人数分の個室がついた住宅が広まり、生活様式を変えていきました。
1980年になると、新しい住居スタイルが確立し、核家族や個人の価値観に相応しい住まいのスタイルが選択できるようになりました。多様化、高気密・高断熱化、高付加価値化が重視され、その傾向は現在も続いています。二世帯住宅、三階建て住宅、バリアフリー住宅、エコ・健康住宅などといった様々なコピーの住宅が誕生。更に次世代に向けての、SI住宅、可変機能を持った住宅、環境共生住宅などといった、新しい居住スタイルの展開も始まっています。しかし、この裏でこれまでの住宅発展に伴う様々な問題が蓄積されてきたといえます。例えば、日本住宅の段差とバリアフリーとの関係や施工におけるシックハウスの問題など解決すべき難題は山積みです。住宅は安心と安全を保証するものでなければなりません。あくまでも人が住む器、また、棲み家として永遠に生き続けるためのものなのですから。

<出典>小泉和子・高藪 昭・内田青蔵共著
「占領軍住宅の記録(上)(下)」住まいの図書館出版局、1999年より

わが国の建築生産と内外装材

戦後における日本経済の隆盛の原動力は、荒廃した焦土からの復興、その全てに心血が注がれました。戦前の統制経済の撤廃、民間貿易の再開、1950年の朝鮮動乱勃発後のビル・建築ブーム、新たな産業設備の近代化への対応、そして国策による公営団地住宅の建設といった住宅供給への対策へと建材の需要を喚起しました。一般産業界でもいわゆる特需景気により、全体的に景気は上向きを見せます。民間の建築ブーム、国の政策としての住宅団地の整備化は、建設産業の発展に刺激と拍車をかけるとともに高度成長の一躍を担うことになりました。これは復興期から戦後の建築業界における新建材発展へいたる門扉を開き、輝かしい時代を予感させました。
この建築ブームによって戦前からの技術的空白を取り戻しながらも、新しい時代の要求に応じるため、海外からの技術導入が活発化。原材料においてもプラスチックなどの応用技術とともに新建材の開発研究が積極的に行われました。

わが国の建築界が戦後一変して新しい方向へと向かっていくのは、復興という合い言葉のもと、社会・経済的にも目標となるべき使命感があったからです。建築業は国や都市をつくるという使命や役割を担っていることは言うまでもありませんが、その特徴としては、次の3つのポイントに集約されます。(1)建築工事費節約に寄与し得るか(2)生活環境を構成するに適しているか(3)防火性があるか。なかでも、建築の防火は、明治時代からの大火に学ぶかたちで重要な位置を占めていました。木造からレンガ造、そして鉄筋コンクリートから鉄骨鉄筋コンクリート造へと都市の不燃化、耐震化に重点をおいた政府の方針を建築法規に取り込みながら、大正8年に制定された市街地建築物法以来、昭和25年の建築基準法として新たに規定され、昭和34年の建築の内装防火という規定が初めて設けられ、不燃・準不燃・難燃といった原料における防火材料の格が完備された時期でもありました。
建物の規模が巨大化する状況を受け、より建築工費の節減、生産性の向上について、これまで住宅建設が「大工」という専門家に象徴されるような職能主義の位置づけから、ここでいう建築とはいわばそれぞれの部材をキット、パーツ化して生産体制を総合的に統括、マネージメントするというものに変わりつつありました。これまでの大工の一貫した現場施工体制から、組や建設会社が一括して発注・生産し、価格を調整して、個々の建築材料を可能な限り工場で加工し、現場ではそれらを組み立てるという資材管理と施工、そして時間の短縮といったネットワークによる管理体制にとって変わったのです。
これが現在の建築生産における基本的な形体でもあり、プレキャストやプレカットなど各要素や分野に限らず可能な限り現場以外で主材を乾式化する「オープン部材」としての方式の基盤をつくりました。加えて、近年のIT技術の進歩は、建築生産という一連の工程、すなわち設計・生産・施工の体制を統一管理し、設計から施工現場、部材の加工にいたるまで統括されたデータのもと動いています。建築が大量・巨大化するという要求に対し、わが国建築業界は「敏速・効率・安全」を見据えた建築生産体制を確立していきました。

 



戦後の復興を抜け、昭和30年を過ぎると、衣・食・住という3要素に変化が表れます。衣食の充実に加え、国民生活のある一定水準を「住」というかたちに集約して見ることができます。この頃を境としてプレハブ・ハウスメーカーの成長は、巨大化する建築業界とともに、住宅産業という一分野を確立しました。プレハブ工法は現場での施工に関わる手間を圧縮、総合的な工期短縮、かつ熟練技能者を必要としないという、いわば大工などによる一品方式から各部材を大量生産した「プレハブ型式」へ移行し、付加価値の高い生産性から実現された価格体制を生み出しました。それは、すなわち経済成長における国民のマイホームへの憧れをあおり、夢を与え、もっとも高級な商品としての住宅―「商品化住宅」を実現させていきます。戦後の生活習慣、生活スタイルの変化から国民が新しい住宅の姿をプレハブ住宅へ見出すのも必然のことでした。
建築内外装といった、とりわけ外装建材が発展、普及した経済成長期には建設業とともに右肩上がりに発展してきた経緯があります。大量生産に大量販売、市場価格を調整して販路に乗せる方法がとられました。新しい建材が販売されると、必ずそれまでのものよりは高い価格を市場に押し出してきたのです。その一つの理由には、商品が商品を越えるための付加価値としてのデザイン性や諸性能といった部分を備えてきたという点にあります。たしかに、防火・防音・断熱などの外壁に要求される一定の機能は、社会状況や法規とともに建築材料に取り込まれ具体化されています。例えば、あるハウスメーカーの仕上げ材を見ると、昭和30年末には外装にアスベストボードの断熱パネル、屋根にはカラー鉄板、アルミサッシュなどが初めて採用され、価格は約15坪を100万円で販売されています。40年に入ると外装パネルも簡易耐火軽量フェノールパネルと実用化され、軽量発泡コンクリートといった当時の最新の技術を充当していくなどの商品開発が行われました。

しかし、昨今では室内環境という配慮から、室内における家具や内装材からの揮発性有機化合物、いわゆるシックハウス症候群についての法的規制が動き出すなど、これまでの野放しだった室内環境を見直そうという条件が内装材に負荷されつつあります。受難となった内装仕上げ材の分野は、低迷し続ける建築業界の発憤剤とする動きもありますが、ここにきて、わが国の伝統的な在来木軸組構法の考え方、土壁や漆喰塗り仕上げなどが癒しという現代のキーワードとともに注目を得ています。この背景に、ユーザーは「健康」といった生命を脅かす問題に対して逸早く、それも敏感に反応するという現実があります。かつての「古民家住宅」が今注目される理由もそこにあるのではないでしょうか。

 

<出典> 「建設材料15年の歩み-日本建設材料協会15年史」(昭和22-37)、(社)日本建設材料協会、昭和40年
梅村魁編「建築生産の技術-計画・施工・管理」丸善、昭和53年

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